劣等感と戦う

私は自分の家庭環境に長い間劣等感を持っていました。どこにでもある普通の家庭の話を聞くことは羨ましくもあり、同時にとても辛くて惨めだった。

その話題に入れないことが苦痛で、それを必死に隠そうとしていたけれど周囲の人はきっと違和感を感じていただろう。依存していた恋人は敢えてその話題を口にしないようにしていたことから、私が他人に気を使わせる存在だったのは間違いないと思う。

今は毒親育ちであることを特に隠していません。言う必要もないけれど偽る必要もないからです。中には内心引く人がいたとしても、それは仕方のないことだと考えています。「育ちが悪い=悪」という考え方を持つ人を否定はできないので。

自分が恵まれた家庭に生まれなかったからといって、恵まれた家庭の人を妬むのはただの八つ当たりであり、相手にとっては理不尽な言い掛かりでしかありません。逆差別という立派な差別です。

私が産まれる場所を選べなかったのと同じで、他人も産まれる場所を選択できなかったのだから。上手く説明できないけれど運とかそういうのでもないような気がする。そういう意味では皆平等だと、いつからかそう考えるようになりました。

今、私が毒親育ちだと知った上で幸せな家庭の話をしてくる人達を見て、私は自分自身に勝ったんだと感じています。(いわゆるマウンティング的なものなら、育ちに関係なく距離を置いた方がいいと思いますが)少なくとも他人に気を使わせる存在ではなくなったということだと思う。

 

劣等感を持つのは自由だけれど、それを他人に背負わせるのは自己中心的な考え方だ。毒親育ちが生きにくいのは、こうした面が多々見られるからという理由もあるのではないかと考えている。

今月に入って理不尽な殺人事件が相次いでおり、その背景となる家庭環境を問題視する情報が目立ちます。私が気になっていた秋葉原の事件も、彼がそうなる理由は家庭環境が大いに関わっていたとは思うけれど、殺人に及んだのは本人の甘さとしか言いようがありません。

たとえ家庭がどうであろうと、すぐにキレたり暴力に及ぶ人と関わりたくないのが普通で、その裏にあるメッセージを読み取って欲しいと考えるのは傲慢だ。確かに苦しくて辛いのだけど、普通の人に心の内を理解してもらおうとするのは無理がありすぎる。

家庭環境が悪いからイジメにあった、他人から否定されたというのは思い込みの部分も多々ありそうな気がする。例え起因がそうだとしても、原因は自分自身かも知れない。

秋葉原の事件をはじめ、そういう類の事件は「自分が不幸だから他人も同じ目にあえばいい」という身勝手な性格故に引き起こされたんだと思っている。身勝手で自分本位な性格だから社会から孤立したのだとも。

しかしながら、毒親というのは本当に余計な業しか背負わせない存在だというのも本音。でも他人を傷付ける理由にはならないんだよね。