変わることの怖さ

機能不全家庭で育った子供はACになりやすい。私は今、自分にとって家庭が貧しかったことはあまり関係ないように感じています。それよりも問題だったのは、やはり「普通の人」の考え方が理解できなかったことでした。

私の周りには問題を抱えた人が多かった(これは私自身がそこへ焦点を合わせていた結果です)ので、それが自分にとって普通の世界でした。だけど世の中には圧倒的に「普通の人」が多い。

私の指す「普通の人」とは、家庭に問題のない人や、仮にあったとしてもACになっていない人、そして人格障害者でない人達のことです。

私の家族は常に何かに不満を抱えていた。そしてそうでない人を妬み、他人や世の中のせいにして生きていました。例え自分達より不遇であっても幸せそうに生きている人を絶対に認めようとはしなかった。言わないだけで何かいい思いをしているに違いないと。

そして自分達が普通だと信じて疑わないのです。自分達の思考を理解できない「普通の人」は、彼らにとって「おかしい人」であり、悪であったと思う。とんでもない思考である。

 

自己愛が私にした嫌がらせは「普通の人」が引いてしまうほどだった。社内だけで済めば良かったものを社内は勿論のこと、同業者や顧客にまで知れ渡ってしまったのです。その上、大げさなパフォーマンスまでやってのけたものだから、もう空気は冷え冷えであります。

詳細を書かないのでわかりにくいと思いますが、彼はこの嫌がらせをしなければきっと称賛されていたはずだ。彼の大好きなものなのに、どうしてその道を選ばなかったのか。

彼も「普通の人」の気持ちが理解できないからだと思う。普通の人がそれを見てどう受け取るか、おそらく予想だにしていなかったはず。わからないことは予想のしようがないからです。

ACの元友人との話ですが、私が急性胃腸炎になり、しばらく電話を取らなかった時がありました。後日その話をすると、なぜすぐ呼んでくれなかったのかと責められ、それほどのことでもなかったからと言うと、「せっかくの出番だったのに」と言われたことがあります。

他人の身体よりも自分の欲求を満たす場がなくなったことに不快感を感じていたのでした。共依存傾向にあり、他人から必要とされたい、感謝をされたいという気持ちが強すぎる故の本音だったのだと思う。

私は心配されたかったわけではないけど、正直不愉快ではありました。そして受け取る側の気持ちを全く考えず、率直に口に出してしまう所も自己愛に似ている。

今気付きましたが、もしかすると自己愛はこれを狙っていたのかも知れないな。私が困った所を見計らって助ける→称賛の流れ。いや違うかな。でももしそうだとしたら、出番をなくしてごめんなさいと言っておきます。

私はこの経験はないですが、過去に「普通の人」を傷付けたことなら多々あります。今でも完全とは言えないけれど「普通の人」の気持ちがわかるようになってきました。

私自身も普通の家庭に育った人を妬み、劣等感を抱いていたから「普通の人」と関わるのが怖かった。他の人はどうかはわからないけど、少なくとも私はACだからこそ「普通の人」と関わって良かったと思っている。

今現在もACで苦しんでいるのなら、似た人と関わっていても苦しいと考えるからです。何よりも「変わることの怖さ」を克服できたことは大きな自信に繋がった。