錯覚

前回で終わらせるつもりだったのですが、やっぱり書き足らないので前沢氏への批判について書きます。

 

「自分の影響力で誰かが傷ついていると思わないのか」これは前沢氏に対するユーザーからの問いだそうです。(これに対し氏は「未熟な自分には残念ながら想像できません。略」と回答しています)

えーっと、傷付いているのは書いた人ですか?それか自分は傷付いていないけれど、傷ついたと声を上げる人を慮っての発言なのか?いずれにせよ、氏の発言によって傷付いた人がいるというのは事実っぽい。

私も報道されている氏の言動全てを肯定的に捉えているわけではありませんし、傷ついている人達が誰を指しているのかもわからない。社員の人かも知れないし、株主かも知れないし、彼女さんのファンのことかも知れない。ただ、影響力という言葉からして、多分一般の方のことだと思うのですが。

私は「したくてもできない人もいる」というコメントがとても気になりました。なぜ見ないという選択肢があるのに、不愉快になるのを承知の上で見に行って、自分と比較して勝手に傷付いているのか。

氏にとってはきっとあれが今の日常なんだろうし(浮かれてる感は否めないけど)、それを発信することの何が悪いのかがわからない。もっとわからないのが、みすみす”自分の方から”傷つけられに行っている、ということです。

 

私はずっと昔から、日本人(他の国のことはわからない)はどうして不幸を美徳と考えるのかが不思議で仕方がありませんでした。

どういうわけか私の実家には精神病についての本があり、幼い頃からそれを読んでいたのですが、その当時は精神を病んだ人というのは違う世界の人でした。いつからか心の病のハードルは低くなり、新型うつというものまで流行する始末。

それはきっと不幸な人が得をする国だからだと思う。「不幸=守られるべき存在」という刷り込みによるものだと考えています。

氏が叩かれる理由は様々だろうけど、彼は特殊な人だからなのかも知れない。おそらく彼のような生活をしている人は一定数いても、その人達は敢えて発信しないのだと思う。見えないものはないのと同じだから。

仮に今、声を潜めている人達が発信を始めて立場が逆転したとして。そこへ不幸自慢なんぞぶっこんでこられて「せっかく私達が楽しんでるのに、気分を害されて迷惑!」とか責め始めたら。やってることは同じなのに、やっぱり傷付くんでしょう?

 

幸せの形は人それぞれ違う。氏は123億の絵が欲しくて買った。私は3万円の財布が欲しくて買った。それを可哀想と言われる筋合いもないし、幸せという気持ちは一緒だから。

氏が豪邸を建てたからといって、現実的に誰かが不幸になることはあり得ない。氏の会社がどうにかなったとして、縁もゆかりもない人が幸せになることもない。だけど不幸な気分になったり、幸せ(メシウマ)な気分になることはできます。

それって、錯覚と似てると思う。実態がないのに、わざわざ自分の不幸を確認しに行かなくてもいいんじゃないですかね。

自分で自分を傷付けないことも、自分を大切にすることに繋がると思うのです。