重圧

先月までの「シアワセ」だった時間を振り返ってみた。

人はシアワセだからといって、全ての欲がなくなるわけじゃない。美味しいものも食べたくなるし、素敵な物は欲しくなるだろう。つまり「心が満たされていれば何もイラン」という状態にはならない。勝手な想像だけど、シアワセな人は「人生を楽しみたい」という前向きさゆえに、却って欲深くなる場合もあるんじゃないかなと考えたりもする。

欲深いことはいいこと。強欲と呼ばれて嫌われるのは、自己中心的だったり、他人から奪おうとするからだ。欲深いことと強欲とは似て非なるものだと強く主張したい。欲に執着し、振り回される状態が良くないだけである。

無条件にシアワセでも、常に思考は働いている。それがポンっと目の前に出てきたとしたら。もちろん物理的にいきなり目の前に表れるわけじゃない。少し時間をおいて「そういえばこれ食べたかったんだ」とか「そうそう、これ探してたんだった」とか、そんなふうになるのだけども、これが続くとちょっと流石にスピ的ななにかを感じざるを得ない。

私は引き寄せようとする時、望みは願いになっていた。願ったことをはっきりと自覚しているから証拠探しをしてしまう。だけどシアワセな時は「願ってる」という自覚がない。ただ頭の中を一瞬流れていくだけだから、願望として持ち続けていないのです。これが真の引き寄せだとしたら、正直言って怖い。だって無自覚な思考が現実になるってことですよ。

たとえ自覚がなくても思い通りになるならいいじゃないか。以前の私ならそう思ったはずだ。でも、それってコントロール不可能ということでもあってだね。無自覚の思考次第では、都合の悪いことを引き寄せる可能性が多々ある。「本気で」自分の思考に責任を持たなきゃならんという重圧。言い訳できんのですよ。

「願い」と認識した世界が現実になることを、私含めて多くの人は望んでいるのだと思う。しかし引き寄せ系のプロが「手放した」上で「いい気分」や「幸せを先取り」なんてことをお勧めしてくるのは、こういう理由があるんだと理解した。多分マジだよ。コワ。

この道を極めるってそういうことだ。

叶ったり叶わなかったりという不安定な状態は、ある意味で逃げ道があります。都合の悪いことは運や人のせい、都合の良いことは引き寄せとか潜在意識のせい。そういう曖昧さは現実世界に生きる人にとって必要だったりするんじゃないかな。

 

先週の半ばから、やたらに7のぞろ目や1と7の組み合わせを見る。ウザいくらい見る。エンジェルナンバーとしては概ねいい意味なのですが、いかんせん私はやさぐれていたので「全然ラッキーじゃねーよ」とか思ってたんですけども。やさぐれなければならない意味があったのだと今は思います。

心が荒んでやさぐれなければ、あの時の「シアワセ」を振り返ることはなかったから。シアワセに生きることと、泥臭くヒト的に生きるのと、どっちが幸せか。どっちになっても茨だと思うけどね。 私は…どっちがいいかなぁ。