お参りー其の弐ー

玉置神社での話。

詳細は省きますが、玉置神社には様々なお社があります。これは私の下調べ不足のせいなんだけど、全部にお参りすると小銭が足りなくなる。というわけで、本殿のお賽銭箱には千円札を入れるしかなく。

千円以上のお賽銭をお供えする時は封筒に入れるのがマナーらしいのですが。持ってないから仕方ないよね。ついでに千円は「100(すべて)が0(なくなる)になる」に通じる説もあるっぽい。ふーん。でも仕方ないよね。

つーか。「すべてがなくなる」って、すべてとはなにを指しているのか。良いものがすべてなくなるのは辛いかもしれないが、悪いものがすべてなくなるのなら幸い、とも考えられる。

もっといえば。良いものと悪いものがすべてなくなったとすれば、ただの『無』である。だけど『無』は『有』でもあるの。よって「すべてがなくなること」は、いずれにせよ悪いことではない。千円は入れてもいいのだ。

 

私たちは出来るだけ早く神社へ着きたかったので、朝昼を兼ねた食事はコンビニで買ったサンドイッチのみ。神社前にある売店の看板にそそられるも我慢、我慢。

鳥居をくぐらずに、山頂への登り口から山頂経由で玉石社を目指したのですが、数分歩いたところで水を忘れたことを激しく後悔する。

下山後、お目当てのさんま寿司は売り切れていたので、めはり寿司1パックを分けて車内で食べることにした。

カラカラの喉を通る水と、葉っぱ(高菜)を巻いたご飯の美味しさといったら。『満たされる』という言葉があんなに沁みたことってあったかな。

 

現在、私は不満も願いもないので、神へのお願いは何も思い浮かばず。結果として感謝を伝えに行っただけなのですが、思いがけず大きな気づきがあった。

充足。

それは得るよりも、感じる心を持つほうが難しいのかもしれないな、と。