居心地のいい場所

なんだかんだ言いながらブログのメインが自己愛になっているので、そろそろ登場させるのをやめたいのですが、いかんせんラスボスであり悪い意味でのソウルメイトなので。

つい1年前ほど前まで愚痴を言いながらでも自己愛を立てて長年働いてきた、会社の要となる古参社員は独立を考えており、「この会社が潰れても構わない」とまで言い切った。

私が退社をためらっていた理由は、この古参社員を含めた他の社員が好きだったから。私にさほど力がなくても多少の迷惑が掛かるのを懸念していた。けれどそこまで嫌気が指しているなら、私より先に会社を去るかも知れないと思いました。

それなら自分がここに居る意味がないと考えていた矢先に、他社からのお誘いがあったことで私の気持ちは一気に退職へと傾いた。

何が不満なのかと聞かれても答えようがないくらい今の自分はストレスがない。仕事はお茶の子さいさいで人格障害者以外の人間関係は良好。色々あっても笑い飛ばせるくらいの耐性もついた。だけど居心地が悪いのです。人格障害者が気持ち悪くて、受け付けられないというレベルではなくなってしまった。

以前、安全領域という記事を書きました。今途中まで読んでいる本の中に、偶然コンフォートゾーンのことが詳しく書いてあります。(amazonプライム会員は無料)

「頭のゴミ」を捨てれば、脳は一瞬で目覚める!

これによると居心地のいい場所(コンフォートゾーン)が似た人は集まりやすいということらしいのです。私は幼い頃から家族の中に居場所がないと感じていたのですが、おそらく私だけが違っていたということなのだと思う。

私は辛い、苦しいと言いながらもそこに留まっていたのですが、不幸であることさえもコンフォートゾーンだったのです。そしてコンフォートゾーンは広げる事も移動することも出来るらしいので、私は本当に自分の望む「居心地のいい場所」を自覚し始めた結果、コンフォートゾーンが移動してしまったのだろう。

私にとって「居心地のいい場所」とは、自分の軸で生きる人の集団です。私自身が自分の軸で生きていられているかどうかは定かではないけれど、いい意味で他人に期待をしなくなったように思う。

期待をしないというのは何も望まないということです。だからこそ何かをされた時の感謝はとても大きく、心から有難いと思える。「こんな私に」と卑屈になるのではなく、きちんと受け取って返そうと思うし、与えることさえも嬉しく感じる。

そして相手も私に何も望まない。これまで過剰に望まれる(というより搾取)環境にいた時はわからなかったけれど、何も望まれないというのはとんでもなく楽チンだ。もう違う自分を演じなくてもいい。寧ろ無理をする方が他人を苦しませるのだと痛感しました。

私がその場所にいけるのはもう少し先かも知れない。でも絶対に行けると信じている。

世界は自分がつくっているのだから。