幸せの概念

潜在意識系でよく『「いま」幸せになってください』というフレーズを見るけれど。あれについて。

私が自分を不幸だと思っていた頃、幸せになりたいと願い、幸せになるための条件を揃えることに必死だった。

しかしある時、他人が持っていて自分が持ってないものを数える無意味さに気付いたのだ。他人は他人。それを私が持ったとて、幸せになる保証などないのだから。

だけど簡単には握りしめた願望を手放せない。手放せない理由は…色々あったのだと思う。一番は不安だったような気がする。

でも危惧していたようなことは何もなかった。相変わらず物欲がなくなることもない。したいことがなくなるわけでもない。

とはいえ、手に入れても派手な喜びはない。手に入れなくても執着はできない。次から次へと湧いてくるそれらをいちいち覚えていられないの。私の「幸せ」を揺るがすものではないし。

結局、私が手放す必要があったのは「願望への執着」ではなく「幸せの概念」だったということなのだろう。

どこかの誰かが作り上げた「幸せの概念」にしがみついている自分だったのだ。

結論。「幸せ」とはただの状態である。

 

 

引き

今だから書くけど。私がワクチンを打たなかった理由は製薬会社にもある。話題になってすぐ調べたらユダヤ系企業なのだ。

私たち庶民に本当のことはわからないけれど、可能性の一つとして一応そことあそことここの関係は頭に置いておくべきだろう。その後の売上高を見るとあながち間違いではなかったかなと思うが。

そんな私がユダヤの教えを好きなのは矛盾しているだろうか。本来ユダヤ人というのはユダヤ教を信仰する人達のことであるが、ユダヤ人の母親から生まれた子供も(信仰しなくても)ユダヤ人らしいのよ。父親がそうだった場合でも自称することはできるだろう。

そういうことです。ミソもクソも一緒にするのはよくないんじゃないかな。

そしてやっぱり人間って愚かだなって思うんです。人間が物事を「引き」で見れるようになったら、少し世界は平和になると思うんだけど。

 

善悪

どちらかを悪だと決め付けるのは難しい。

弱者に寄り添う=優しいという概念があるようだけど、わかりやすい弱者にしか寄り添えないのなら、それは問題だ。

ある場面では「どんな理由があっても弱者に暴力は許されない」ものであり、またある場面では「耐えられない理由があったのなら弱者の暴力は許される」もので。要するに、弱者はいついかなる場合でも正当化されるってことだ。バカみたい。

そしてこれは強者にも通ずるものがある。

強者は悪、弱者は善ではない。強者の中に善と悪がいて、弱者の中にも善と悪がいる。善は善と、悪は悪と引き寄せあう。それだけのことなのです。

 

 

ジャッジ

コロナと宇露戦争を経て、私はとても自由になった。

私が生まれてから住んでいる日本という国の民は、不安に弱く、思考停止しやすいタイプが多い。そしてとても純粋だ。報道の自由度が低い日本のメディアを鵜呑みにして、感情のままにそれを吐き出す。

純粋だけど覚悟はない。数多ある報道の中から自分に都合のよいものを選んで信じていることにも気付かない。だから都合が悪くなると簡単に寝返って誰かのせいにする。

いわゆる「自分のない人」ということになるが。そのような人たちから言われた言葉で傷付くのもまた「自分のない人」なのだろう。

かつて「自分のない人」だった頃の私も他愛ない他人の言葉に傷付き、感情をフル稼働させたものだ。

だけどこの地は「自分のない人」で溢れている。「自分のない人」の発する言葉は他の誰かの言葉であり、その考えはどこかの誰かが植え付けたもので。

そんな人にジャッジされたいか?って話なんだよなw

 

再確認

身勝手な犯罪者の裁判記事を読むたびに、自分のきょうだいを思い出す今日この頃。性悪説はある。生まれた時からどうしようもないクズは存在するのさ。

すると引き寄せた。きょうだいのほうから昔の話を出してきて。自分はひどい人間だったとか後悔しているとか、そんな言葉はもう私には響かないのに。

私が生まれてから「あんたなんか生まなければよかった」と言われ続けた事実を初めて聞いたわけですが。幼少期にそれはつらいかもだが、だからなんだ?って話。「愛に飢えていた」知るかよ笑

「ふーん。ほんであんたはそれを母親じゃなくて私に向けたんやな?」と聞くと、子供だったから仕方がなかったと言った。

んなわけねー笑!!それはさ、人間性の違いで。世の中の人全員がそうじゃねーよ。どんな世界に生きてんだと。

私はまだ「そこ」にいるきょうだいを愛おしいと思った。

そして己の自由を再確認するのだ。

暇つぶし

なんつうか。

「長いものに巻かれる人」を責め立てる人が多いけど。責め立てる発端が「長いもの」であることはてんで無視。つまり責め立てる人もぐるんぐるんに巻かれている。その矛盾を説明してくれよ。

この世界に聖人なんていない。「自分だけは違う」それが既に烏滸がましくて傲慢なのだよ。気付け。

この世はウソとダブスタと、あれやこれやでできているわけです。そんな世界が愛おしくもあるんだけど。

矛盾を受け入れられないから苦しくなる。なにより自分自身の矛盾が我が身を縛り付ける。そういうものじゃないのかな。

私は『人生は死ぬまでの暇つぶし』だと思うようになった。本当は、大変なことなんてなにもない。というかなかったのだ。

だから日記に書くことがない。

 

 

レッテル

「なぜヒトは幸せになれないのか」ではなく「なぜヒトは不幸になるのか」の答えをずっと探していた。この謎に終止符を打ったきっかけは、こないだ書いた女優さんの旦那氏だった。

ある種の人達にはあの会見が刺さり、蝋燭がバカ売れしたのち、過去の報道で謎の聖人扱いは一転するという、鮮やかな手の平返し。

そもそもなぜそんな現象が起きたのか。各々の脳で作られた妄想を基にレッテルを貼っていることに気付いてないから。事実と乖離している可能性をまるっと無視しているからである。

人間は見たいものを見たいように見ている。つまり世界は自分が作っているってことなんだけども。残念ながら三次元には妄想を現実として生きている人が半端なく多い。

要するに。(勝手な)妄想に対して不安になったり、喜んだり、怒ったり、悲しんだりしているわけです。「今を生きる」=「現実を生きる」ってことだったのだ。

 

ここで潜在意識の達人、詭弁氏の言葉を。

あなたの妄想が現実なんだから妄想で終わるとかいう感覚はそもそもおかしい。

現実なんてものはあなた方の妄想の残りカスなんだからぶっちゃけどうでもいいものなんだよ。意味なんてない。

(中略)

私が徹底的にやれと言っているのは何故かというと、現実を変えるために妄想を変えるのではなくて(それだと意味がない)、現実が妄想でできていると確信するためにやるの。

※「思考を変える」ことを徹底的にやれと言っておられます。

 

妄想の中で生きてる人の言葉に意味はあるのか。価値はあるのか。

少なくとも私にとっては、ない。