カード

10数年前に見つけたブログ。その人はざっくりいうとお金持ち(ざっくりしすぎ)。当時はよく潜在意識のことを書いていたが、ある時その存在を撤回してしまった。

そして最近再び原点に戻ったようである。結局行き着くところはそこなんだなと思う次第。いや、そうなのよ。宇宙の法則は絶対。

近頃さ。色々バカらしくなってきて。正しいとか間違ってるとか、所詮人間の決めたルールじゃないの。あと価値観にもよるし。

そんなくだらないことのために必死に争う人間ってなんだろうと。正義が悪を生んでるんじゃない?って思うようになった。だってそうでしょ、悪がなければ輝けない人達がいる。

宇宙の法則に則って善悪を決めるのならば。幸せな人=善ってことになるね。三次元では悪でも、宇宙的には善。

全ての人間に配られた素晴らしいカード。それこそ平等なのです。

 

 

ゴキゲン

話の流れから知人が「借金の支払いもあるし」と言った。コロナ禍で受けたゼロゼロ融資らしい。続いて「返さない人多いらしいよね。信じられない」と。

私はむしろそっちのほうが想定内で、国は承知の上でお金貸したんだとばかり思ってました。メディアは今さら何を騒いでるんだと。良いとか悪いとかじゃなくて。現実見ようぜ。

現実を見ないことによって生まれる負の感情を舐めてはいけない。現実を知っていれば驚いたり感情を揺さぶられることって格段に減る。

そして他人は変えられないことを頭に置いておけば、考えても仕方のないことを考える必要がなくなる。時間も増える。

ゴキゲンを保つためにできることって実はいっぱいあるの。

 

 

妄想族

自己愛の強い人多いよな。そうそう、自己愛の強い人も妄想族である。

私の上司である元自己愛は本当に大変だった。進捗状況を聞いているだけなのに、できない理由を喚き散らかす。答えになってない。そんなことは聞いていない。

こちとら責めもしてないし咎める気もないが、彼の無意識がそうさせていたのであろう。自分がそういう人だから。あと、とにかく怒りたいってのもあったと思うけど。

だから聞く前に「たいした意味はないんだけど」「ちょっと聞きたいだけなんだけど」と前置きをするようになった。今は上司がこれをやっている。

理由を聞きもしないでキレ散らかすとか、サル並みだから。ただ、そういう人は理由を聞いたところで納得しないだろう。なんせ妄想族なので。

人間に進化した彼は穏やかである。いくら正しいことを言っていようが、妄想族との間に争いは尽きないのだとよくわかった。

ともすればこちらが加害者にされてしまう可能性だってある。なので妄想から抜け出せない人とは関わらないほうがいいのです。

平和を望むなら。

 

 

幸せの概念

潜在意識系でよく『「いま」幸せになってください』というフレーズを見るけれど。あれについて。

私が自分を不幸だと思っていた頃、幸せになりたいと願い、幸せになるための条件を揃えることに必死だった。

しかしある時、他人が持っていて自分が持ってないものを数える無意味さに気付いたのだ。他人は他人。それを私が持ったとて、幸せになる保証などないのだから。

だけど簡単には握りしめた願望を手放せない。手放せない理由は…色々あったのだと思う。一番は不安だったような気がする。

でも危惧していたようなことは何もなかった。相変わらず物欲がなくなることもない。したいことがなくなるわけでもない。

とはいえ、手に入れても派手な喜びはない。手に入れなくても執着はできない。次から次へと湧いてくるそれらをいちいち覚えていられないの。私の「幸せ」を揺るがすものではないし。

結局、私が手放す必要があったのは「願望への執着」ではなく「幸せの概念」だったということなのだろう。

どこかの誰かが作り上げた「幸せの概念」にしがみついている自分だったのだ。

結論。「幸せ」とはただの状態である。

 

 

引き

今だから書くけど。私がワクチンを打たなかった理由は製薬会社にもある。話題になってすぐ調べたらユダヤ系企業なのだ。

私たち庶民に本当のことはわからないけれど、可能性の一つとして一応そことあそことここの関係は頭に置いておくべきだろう。その後の売上高を見るとあながち間違いではなかったかなと思うが。

そんな私がユダヤの教えを好きなのは矛盾しているだろうか。本来ユダヤ人というのはユダヤ教を信仰する人達のことであるが、ユダヤ人の母親から生まれた子供も(信仰しなくても)ユダヤ人らしいのよ。父親がそうだった場合でも自称することはできるだろう。

そういうことです。ミソもクソも一緒にするのはよくないんじゃないかな。

そしてやっぱり人間って愚かだなって思うんです。人間が物事を「引き」で見れるようになったら、少し世界は平和になると思うんだけど。

 

善悪

どちらかを悪だと決め付けるのは難しい。

弱者に寄り添う=優しいという概念があるようだけど、わかりやすい弱者にしか寄り添えないのなら、それは問題だ。

ある場面では「どんな理由があっても弱者に暴力は許されない」ものであり、またある場面では「耐えられない理由があったのなら弱者の暴力は許される」もので。要するに、弱者はいついかなる場合でも正当化されるってことだ。バカみたい。

そしてこれは強者にも通ずるものがある。

強者は悪、弱者は善ではない。強者の中に善と悪がいて、弱者の中にも善と悪がいる。善は善と、悪は悪と引き寄せあう。それだけのことなのです。

 

 

ジャッジ

コロナと宇露戦争を経て、私はとても自由になった。

私が生まれてから住んでいる日本という国の民は、不安に弱く、思考停止しやすいタイプが多い。そしてとても純粋だ。報道の自由度が低い日本のメディアを鵜呑みにして、感情のままにそれを吐き出す。

純粋だけど覚悟はない。数多ある報道の中から自分に都合のよいものを選んで信じていることにも気付かない。だから都合が悪くなると簡単に寝返って誰かのせいにする。

いわゆる「自分のない人」ということになるが。そのような人たちから言われた言葉で傷付くのもまた「自分のない人」なのだろう。

かつて「自分のない人」だった頃の私も他愛ない他人の言葉に傷付き、感情をフル稼働させたものだ。

だけどこの地は「自分のない人」で溢れている。「自分のない人」の発する言葉は他の誰かの言葉であり、その考えはどこかの誰かが植え付けたもので。

そんな人にジャッジされたいか?って話なんだよなw