精神的な冤罪

満たされない人は幸せを感じられない。常に飢えている。そういう人は心の底から不幸が好きなのだと思う。不幸でいる事にメリットを感じているのです。

不幸でいた方が守ってもらいやすい。思い通りにならない時も自分を正当化し、相手を責めることができる。努力もせず罪悪感も感じず有利に生きていく為の手段とも言える。

 

私がまだACだと知らなかった頃、毎日電話を掛けてきては愚痴を言う母の不満を家族ぐるみで解消しようとしていた時がありました。

例えば「○○さんは△△に連れて行って貰った」と言われれば、無理して有給を取り皆で休みを合わせて計画を立てた。しかし前日になって訳のわからない理由でキャンセルされ、肝心の母がいないままの旅行になった。

どうしても家族で過ごしたいという母の願いを聞き入れ、皆が都合を合わせて集まってみると本人は他県に行っていたりする。書き出せばキリがないけれど、その度に私達は翻弄され疲弊していったのです。

挙句の果てに、外では”子供に親孝行の一つもされず、家族に冷遇されているけれど、誰よりも家族を想っている優しいお母さん”を演じ切っていたのでした。

 

そして母だけではなく、内容は違えどほとんど同じパターンであるのが興味深い。事実を捻じ曲げてでも被害者であり続けようとする。しかし、その為には加害者の存在が必要不可欠となるのです。

そのポジションに選ばれた者はどれだけ尽くそうとも報われることはありません。加害者という立場を取らせる以外に存在意義がないからです。

これは精神的な冤罪だと思う。同じ罪を背負うのなら自分の意志で罪を背負いたい。

自分が被害者になることで他人をコントロールしてきた人間にとって一番嫌な人はそれが通じない相手です。見透かされたとわかった時に怖さを感じるようです。