似非弱者

私は子供の頃から「自称:かわいそうな人」はどうしてあんなに声(音量ではなく)と態度が大きいのかという疑問を持っています。

そのきっかけはやはり家族なのですが、”我慢できない人は結局許される”という風潮は社会に出ても変わらない。

実際に自己愛のような厄介な人を排除するのではなく、どうすれば上手くやっていけるかといった記事の方が多いことから、折れる事ができる方が折れるようになっているのだと思う。

 

以前”3か月で辞めた会社の話”の中で、不幸な境遇にある方ばかりが働いていたと書きましたが、幾つかある子会社もほぼ同じ環境でした。その中に、異質な方が一人おられたのです。

私は数度しかお会いしたことがありませんが、とてもキレイで優しい家族に恵まれて好きな事を仕事にしている女性でした。正社員ではなかったものの会社に大きく貢献されていたと思うのです。

しかし、その会社で彼女を快く思う人はいなかった。思っていても口に出せなかったのだと思う。なぜなら苦労こそが美徳であり、貧しさが美しい世界なのだから。そして大人のイジメにあっていた。

 

弱きを助ける、いい響きだと思う。けれど本当の弱者は声すらあげられないのが現実。助け合いなどと叫ぶのはいつも似非弱者だ。弱者である自分達は守られて当然だと考え、義務も果たさずに権利だけを求める人間に助け合いの「合い」は存在しない。

相対的に自分達より優れている者、良い環境にいる者には何をしてもいいと思っているのです。それを「かわいそう」という理由で許すのは個人の勝手だ。それなら自分の全てを投げ捨ててその人達に尽くせばいいと思う。

 

強要するのはやめていただきたい。似非弱者に優しく美しい国、ニッポン(笑)