あの事件のこと

秋葉原の事件から今日で10年が経つそうです。私は無差別殺人事件の中で、この加害者が一番気になっている。

彼は非常に教育熱心だった母親に厳しいしつけを受けてきたという。遊ぶことも制限され、母親の期待に応えないと暴力をふるわれる。廊下に敷き詰めた新聞の上にぶちまかれた食事を食べさせられる。家族は見て見ぬ振りで助けてくれない。

彼女とも別れさせられた事もあったそうで、スポーツマンで人気もあった彼が歪んでしまうのには充分すぎる理由ではないか。成人を迎えれば親の責任は問われないとはいえ、私はどうしても親の責任を感じずにいられないのです。

彼の母親は県下一の進学校である高校を卒業しているけれど、大学受験に失敗したという。それがどれほど大事なものだったのか私には全く理解できないけれど、おそらく母親は自分自身を許すことができなかったのだろう。

 

私の母も学歴重視の人間だったので、私も小学校の頃から自主的に真っ直ぐ家へ帰り、復習と予習を欠かさなかった。小学2年生の頃だったか、私の様子がおかしい(多分子供らしくなかったからだと思われる)と心配した先生に、いかに自分の子供が勉強熱心かを嬉々として語っていたのを見て心がザラザラしたのを覚えています。

母を喜ばせたいと思う反面、自分は何の努力もしない母親に反抗心を抱くようになり、私は高校を辞めた。もちろん家を出るのが一番の目的ではあったけれど、母の期待を断ち切るには少しでも早い方がいいと考えたからです。

高校の次は大学、大学の後は就職、そして伴侶。私は一生母の望み通りの人生を送らなければならない。母の劣等感を埋めるために人生を犠牲にするわけにはいかなかった。私はこの選択を間違えたとは思っていない。

 

彼の母、そして私の母も自分が幸せでない理由を学歴のせいにしただけだ。かといって彼の母は受験に受かっていたら幸せだったのかと考えると違うような気がする。

地域の教育アドバイザーなどもしていた母親は、子供を立派に育てたという実績が欲しかった。しかし自分の期待に応えられない子供が疎ましかっただけなんだと思えて仕方ない。彼と同様に母親もまた、認めて欲しかっただけなんだと思う。

確かに学歴があれば認められたかも知れない。だけどその根拠はどこにもなかったはずだ。不確かなものにすがり、子供の人生を狂わせた。そして結果的に多くの命と人生を奪ってしまった。

私は決して加害者を擁護しているのではありません。もちろん一番悪いのは彼だと思っています。けれど母親が自分自身と向き合うことが出来ていたなら、歪んだ承認欲求の連鎖を食い止められたんではないかと思うのです。

自分を認めなければ他人を認めることはできないのに。自分を認められれば他人に認められなくてもよかったはずなのに。