掃除=愛される手段

私はもう愛される努力も、自分を愛する努力もしたくない。何かを得るために頑張りたくないというのが本音だった。手に入るかどうかわからないモノを追いかける事に疲れたのです。いっそ何も求めずに生きて行けたらどんなに楽だろうか。

そんな悶々とした日々を送りつつも、前回の日記を書いた後から少し変化が起きています。今日は朝からクローゼットの整理をした後で日記を書きました。

私は昔から掃除が嫌いだったわけではありません。初めて一人暮らしをしたマンションは保証人がいなくても(書類には必要ですが保証人の署名はいらない)入居できる代わりに敷金が返ってこない事で有名な不動産業者だった。

更には退去時に修繕費という名目で法外なお金を払うことも知られていましたが、私の部屋は「入居時と変わらない」と驚かれたほどでした。狭い部屋だったのも一つの理由ですが、その頃は暇さえあれば掃除をしていたからです。

いつからか私は最後までやりきることなく、なにかを残すようになっていった。そうして毎回「やっぱり駄目だった」と自分のダメさ加減を再確認するのです。そしてこんな自分は幸せになってはいけないと言い聞かせていたのでした。

 

今思えば、私にとって掃除は愛される為の手段の一つだという認識があったのかも知れない。だから”どうせ”手に入らないのなら頑張りたくないし、努力なんてしたくなかったのです。今ここには私以外の誰もいないのに。

この先はどうなるかわからないけど、とりあえずこうした認識の存在を認められたことはとても大きな気付きだったように感じる。掃除=愛される手段という思考を分離できたからだ。その結果、自分を責める事はなくなったし、掃除そのものに意味を持たせなくなったからです。

そして、もう頑張らなくていいんだと自分自身を許せた自分を少し好きになった。皮肉なことに、自分を許すと掃除をしようという気持ちが湧いてくる。あれは「掃除をしなければ私は私を愛さないぞ」と条件を突きつけた自分に対しての抵抗だったのではなかったのかとさえ思う。

 

ここ数日、淡々と掃除をしながら『今を生きる』とはこういう事なのかと、ふと考える瞬間があります。過去の事も未来の事も、後悔も望みも存在しない時間は案外心地いい。