赦し

勢いあまってDVDを買ってしまった。THE SECRET [DVD] (アフィリじゃありません)

もし私が凹む前にこれを見ていたらどんな気分だっただろうと想像すると、おそらく信じていなかったと思う。私だって出来ているつもりだ、と憤りを感じていたかも知れない。

私に疑いのあった病気について数人の知人と話をしたのですが、その反応は様々だった。ある知人の知り合いは、その病気にかかって精神が崩壊してしまったという。しかし私の周りには何事もなかったかのように過ごしている人達がいる。

だから私はいざ病気であったとしても、薬の副作用をどこまで楽しめるかと考え、命が終わるまで何をして過ごすかシュミレーションまでしていました。私と知人にとって、その病気に対する認識は全く違うものだったのです。

違う人生なのだから違って当然なのだけど、知人にとって恐ろしい病気であったのが、私の言葉によってハードルが下がったというか、認識が変わったことに感謝されました。

DVDを見た後、この会話を思い出して、これもまた当たり前であるけれど人はみな自分の認識の中で生きているんだと改めて思いました。だから誰かにとっての当たり前は誰かにとってのとんでもない事だったりする。これが軋轢を生む原因なんだろう。

最近何も考えない生活を送っていますが、まず怒るという感情がなくなったのは大きい。私はこれまで、ありとあらゆる他人の存在に期待しすぎたのだと思っている。自分の認識の中で生きている他人を変えようとすること自体が無理だったのです。

だからあるがままを受け入れる。言葉にすると難しいのですが、赦すとはこういうことなんだろうか。例えば前回書いた彼女の事。私はあの件以来、彼女が苦手ではなくなった。「勝った」と感じたからではなくて、彼女を否定した自分を許せたからです。

彼女のこれまでの言動に対して、私は常に不愉快な感情を抱いていた。だけど優越感に浸りたい彼女の気持ちを尊重し、自分がやりすごしていればいいんだと考える自分から、自分が救い出したという出来事は気持ちに大きな変化が生まれた。

だから私はもう「マウンティングされてもいい」と思っている。ただし、マウンティングそのものを許すのとは違い、彼女を赦すということです。彼女はマウントを取ることで優越感を感じる世界に生きている。だからしっぺ返しをくらったとしても彼女の責任なのです。

どんな認識を持っていてもいい。ただ、その認識の責任は自分で取るしかなくて、自分以外には誰も責任を持てないんだと妙に納得している。

やっぱり説明は難しいな。いつか上手くできるようになるかも知れない。