観念

また、塩漬けの株が急浮上して買値まで戻ってくるという出来事がありました(喜)。そして会社とは関係ない臨時収入が10万円弱入ってきた。

私は最近、財布の話やお金の事をよく書いていますが、銭ゲバ人間になったわけでも、必死で「欲しい!」と願っているのでもありません。もちろん金運を上げるためにあれこれしているのは間違いではないけれど。

ただ、お金への復讐という記事を書いた頃に今と同じ事をしていても、良い結果にはなっていないと思う。私は今、金運を上げるという結果そのものより、お金に対する抵抗を下げる作業をしているのです。「私には手に入れる価値がない」という観念を取り除くために。

以前の自分は、お金を渇望しまくっている割に全く大切にできなかった。好きだと言いつつ暴力を繰り返すDV野郎と何ら変わりはない。あれはただの執着だ。私はあの頃、お金を得る目的が今とは違って自分の価値を上げるためにお金を必要としていたのだと思う。

収入によって自分の価値が決まると本気で信じていた私は「お金が欲しい」と願う度、逆に自分の価値の低さを再確認するという行為を行っていた。「お金が入らない」→「私には価値がないから」→「お金を手に入れなければ」という負のスパイラル。

私には価値がないという観念は親から植え付けられたと書いていますが、実際にその言葉を言われたわけではありません。私が勝手に兄弟と比較し、勝手にそう思い込んだだけです。親に責任がないとは思えないが、厳密に言えばその観念を植え付けたのは自分自身ということになります。

自分で植え付けたのなら消し去るのも自分しかいない、それは自分に対する責任でもある。

 

私が手に入れたお金の事などを書いているのは具体的に起きた変化を示しているだけで、特に意味はありません。私としてはお金の流れに風穴が空いたというイメージで、今の気持ちは執着とは反対の位置にいると思う。

手に入れば当然嬉しいのだけど舞い上がってもいないし、リアルでは誰にも言っていない。これはお金への重要度が下がったからだと考えています。重要度とは心理的なハードルとも言える。自分に価値があるとかないとかという問題とお金を得ることは全く関係がなかったのです。

こうした気付きを潜在意識系では『認識の変更』という呼び方をすることがあります。認識が変わったからといって必ずしも願いが叶うわけではないのですが、「ない」と思い込んでいるものが「ある」と解るようになるかも知れません。

自分の抱いている観念は本当に本当なのか。とことん疑ってみれば、一見不都合であることが”本当の”自分にとっては都合がよかったりする。

私は今、親への復讐のために不幸になって、辻褄合わせのために「親を責める理由」を自分で作り出したんじゃないかとすら思う時がある。不幸が先か理由が先か、今はまだわからないけれど。