許すと赦す

私は落ち込んだ時から、そろそろ親を許さなければいけない時期が来ているのかも知れない、と考えていました。

今回のきっかけは掃除だったのですが、今は「掃除ができなくてもいい」と思っている。とはいえ掃除はしており、思考と行動を切り離して観察して見ていても掃除そのものは大差がない。つまり悩んでいても悩まなくても変わらないということです。

出来ない理由をトラウマのせいにするのは簡単だ。けれどトラウマはトラウマであり、それに付随する行動を変えることは可能な場合があるのかも。そして、そうすることでトラウマはトラウマではなくなる。

 

親のことはさておき、私と自己愛達との関係には変化がありました。まず共依存者についてですが、何度も書いたように彼女は他人を不愉快にする性質である。彼女はため息やネガティブな独り言がとても多く、物に八つ当たりをすることも多々あります。立派なモラハラだ。(ちなみに私の母もよくやる)

私は以前書いたようにマメな方ではないので、これを利用して手っ取り早く綺麗にならないかなと思いついた。これはシークレットを見る前で、なぜこうした気持ちになったのかは覚えていないけど、とにかく『彼女の不愉快=自分の美しさ』に変換することにした。

彼女のような言動を取る人はおおよそ自分の人生に不満を持っている。そしてかまってちゃんであり、無意識に他人を自分のレベルまで引きずり降ろそうとしている。善意のある人間はこれらにあっさり引っかかってしまう。不愉快だと思いながら知らず知らずのうちに不安や罪悪感を抱かされ、コントロールされていくのです。

それから数日後、会社の女性から日常的に行われる彼女の言動について愚痴を聞かされたので、私はこう思っていると上記の説明をしてみた。上っ面では、彼女は何か不幸を抱えているように見えるけれど、彼女はそれが幸せなんだと。だから他人が心配せずとも大丈夫で、こっちも幸せでいいんだとも。

その女性を通じてこれは他の女性たちにも広まり、彼女が溜息をつく度に笑顔がこぼれるようになった。互いに「また綺麗になっちゃうね」と褒め合うこともある。彼女に引き摺られて下がっていた波動が変わった。これは我ながらいい思い付きだったと思う。

許すと赦すの違いについて。例えば彼女は泥だらけの水溜りの中で寝転んで駄々をこねているようなものだと考えている。そうすれば思い通りにならないことを誰かが何とかしてくれるという期待を抱いて。

その期待に応えて何とかしようと周囲が動くのを『許す』ということだと思う。彼女の思い通りに行動し、さらには汚れた服まで着せ替えてあげるようなもの。『赦す』とは駄々をこねる彼女を許すということだろうか。手も出さないし解決もしないが、駄々をこねていてもいいと認めてあげることだと思う。

彼女がそのまま泥の中に居続けるのか、それとも立ち上がって泥だらけの服を自分で洗うのかは彼女が決めることだ。私たちは彼女を見ながらおままごとを続け、楽しんでいてもいい。赦すとは他人も自分も自由にすることだと考えている。

 

こうした結果、彼女が溜息をつくことが減ったので、綺麗になる効果のほどは検証できませんでしたが。