相変わらず株の調子はよろしくありません。6月下旬から市場全体の雲行きが怪しくなってきたせいもあり、今は勝負に出ない方がいいのかなと、半ば諦めモードに入っている。

少し株から離れ、再び潜在意識系の本を読み漁っていて、4月半ばから5月まで感じていたシアワセは「繋がっている証」だったのかもしれないと考えるようになった。ハイヤーセルフ(高次の自分)とか魂とか神とか、そういうもの。考えれば考えるほど、そうとしか思えなくなってくる。

5月は仕事の多忙さに加え、新たに勉強なんか始めちゃったりした上、さらに株にも全力。ちょっとこれまでの自分では考えられないくらいパワフルな日々を送っていた。そしてそれが全然苦痛ではなくて、むしろ楽しくて仕方なかったのだった。成功者がやたらと口にする「頑張らない」とは、あぁいう意味だったのかとも思う。楽しい時に「頑張る」という言葉は似つかわしくない。

しかし、この状態が却って仇となってしまったのだ。パワフルに動きながらも体感的には頑張ってる気がしない。だから降って湧いたようなラッキー(と感じた)が怖くなってしまったのだと推測しています。「何かを得るためには頑張らなければならない」という観念の裏には、「頑張ってないのだから得てはいけない」という観念が隠されている。

だから私は「頑張ったんだから手にする権利はあるよね」と納得したいがために、自ら望んで頑張るほうへ方向転換し、帳尻を合わせようとしたのではないかと。思考のクセだ。貧しい人が大金を手にした後、元に戻る可能性が高いというのと似ている。お金に限らず、上手く波に乗り続けられる人とそうでない人の差はこの辺りなんじゃないかな。

ところが、グダグダな6月とシアワセだった5月を客観的に比較すると、5月の方が明らかに頑張っていた。6月は体感的には頑張っていたけど、頭で考えていただけで結局行動に移せなかったことの方が多い。「頑張っている自分」すら本当はマヤカシで、たいしてというかほとんど頑張っていないのだ。

「頑張ってるけど報われない」それって真実なのかな。本当の意味で頑張っていないのだとしたら。報われなくて当たり前、なんじゃないか。

私は再び「繋がっている証」を探して、色々と模索している。私は頑張りたくない。楽しみたいのだ。