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暗いニュースが続く中で、日本は病みに包まれているのだという。それは仕方がないことなのか。人として当たり前なのか。私はそうは思わない。芸能人の自死に無関心な人は心が冷たいのか。一致団結して悲しみに暮れなければ人でなしなのか。私はそうは思わない。

私は三浦春馬氏の死についてさらっと書いたけれど、遺作となった限定版のDVD+CDを買ったくらいにはショックを受けている。元々熱狂的なファンでもなく、テレビを見ない私は動く彼を見ることもないに等しかった。しかし自分の中で三浦氏は『類まれなる美しい人』という位置にいて、好きとかそういう感情とは違う、もっと高い次元の存在だったのです。

 

はるか昔のことのように思えるけれど、今年の2月までは他人の感情をダイレクトに受け入れていた。若干の疑いを持ちながらも、人の痛みに寄り添ったり共感するほうが善人だという認識を捨てきれなかったところはある。だけど今は少し違うような気がしています。元来ネガティブな傾向にあるヒト科はネガティブに偏る方が簡単だからだ。

もう一度言う。人は嘆き悲しむほうが簡単で楽、なんだよ。ニュースから距離をとる、心が重くなるものは見ない、計り知れない他人の気持ちを詮索しない。たったそれだけのことができないゆえに、自ら病みに嵌りこんでいく。なぜたったそれだけのことができないのか。答えは無意識の言いなりになっているから。潜在意識の世界では、それを自己責任というのです。

アドラーは『課題の分離』という考え方を提唱している。「人間関係の悩みはすべて対人関係の悩みである」を前提とし、『自分の課題と他者の課題を分離していく』ことでそれらから解放されるというものらしい。解放という言葉は私が付けたので、アドラーがそう捉えているかどうかはわからないけども。

『嫌われる勇気』を読んでいない私がこの言葉を知ったのは、随分前に見た掲示板だったと思う。調べるうちに、期せずして自分は『課題の分離』を自然と学んでいたのだと知った。ちなみに「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」という問いが、誰の課題かを見分ける方法だとあります。

私は2月以降、怒りの感情を持つことが極端に減った。スピリチュアル体験と、この国への完全な失望が重なったからだと思っている。「あなたの問題はあなたの問題」と切り離すことへ世間様は冷たいという評価を下すが、勝手に自分の問題にすり替えることで、許す余地のある人間が完膚なきまでに叩きのめされる現実は絶対に認めないよな。

 

三浦氏の残したメッセージは、彼らにはきっと届かないのだ。私は今日も元気です。