傾聴

近頃はことごとくタイミングが悪いだけで、決してツイてないわけじゃない。むしろツイてるように思える。ただチャンスを掴めないのだ。頭に浮かんだことを放置すると、かなりの確率で後悔することがわかってきましたが、いかんせん情報量が多すぎて全く行動が追い付かない状態である。

買おうかどうか悩んでいたものをふと思い出してサイトを覗き、後で買おうと再び見てみると、大量にあったはずの商品が売り切れで再販なしだったとか。フリマサイトでなかなか売れないものを処分しようかと思い立つも放置していると、買いたいというメッセージが届いていたとか。これはまさに今の話だけど、慌てて返信したものの数日経過しているので連絡がくるかどうかはわからない。

 

私が他人のことで思い悩んだのは、2月にスピリチュアル体験をした時が最後になります。それ以降、他人に腹を立てることもなく平穏に生きている。めちゃくちゃ忙しい時に自己愛が余計な仕事をぶっこんできた時は、その場で冗談めかしてキレるようにはなりましたが。「物理的に無理なもんは無理なのよ。あんたがやれば?」を最大限までオブラートに包む。

「悪いけど、ここまででいいからやってくれないかな。後は俺がするから。」奴は折衷案という技を覚えた。少し前から「ごめん」「ありがとう」までがセットになった。そうだ、それでいいんだ。つーか、それが普通ですから。こんな感じなので私は今、会社で働くことが全然苦痛ではなくてどっちかといえば楽しい。世界は本当に変わる。

勤労と納税は現実世界の義務である。人生の中で大半を占める(であろう)勤労部分が楽しいと、それだけで人生はかなり軽くなります。その上、悩みの主な原因である『他人』の存在が薄くなると、考えるのは自分のことだけになる。私は多分、幸せなんだと思いますよ。

今の私にとって『他人』は、同じ空間にいるだけの生命体だ。現実世界で生きるには共存しなければならない存在、それだけです。複雑な感情に支配されがちな人間より、私のためだけにいる『見えない存在』のほうが重要で大切だと本気で思っている。だからその声を聞き取ろうと藻掻く。

色々と思い悩んだ6月、私の脳裏には誰の存在も頭に浮かばなかった。以前の自分と比較してみて、誰かの存在が救いになるなんてことはない。「大丈夫だよ」「出来るよ」誰かにそう言ってもらえたら私は変われるのだろうか。答えは否。きっかけにはなるかも知れないが、とにもかくにも潜在意識様が変わらないことには始まらないからである。

冒頭の話も株もそうだけど、私達は想像を遥かに超えるレベルで無意識に左右されている。気分がいい時、積極的な時はチャンスに敏感だ。だけどそうでない時は、だいたいネガティブなことを考えています。よって手が伸ばせない、動けない=手に入れられないという結果になる。自己責任とはそういうことだと考えているのですが。

まだまだ道の途中ではありますが、他人のことを考える暇があるなら、見えない存在の声に耳を傾けたほうがいいなとしみじみ思うよ。マジで。