学べない社会

「この人はいま学んでるんだ」

斉藤一人さん曰く「人は困らない」のだという。たとえ博打に明け暮れていても、たとえ勉強をしなくても、案外困らない人は困らない。勉強に限っては私自身がそうで、学歴がなくても別に困ってはいない。困った時が学ぶときなのだ。

お金にだらしなくても、だらしなくしている時は困っていない。だけど失った時に初めてお金の尊さを知る。それが学びである。お金を失っているのだから結局「困るんじゃないか」と思いがちですが、良いことを聞いて良いことを学ぶって困ることではないから、やっぱり困ることじゃないよね。だから「人は困らない」というのが一人さんの理屈です。

近頃、この日記を書き始めた頃のことをよく思い出します。私は今の会社で自己愛と共依存からパワハラを受けたのは、私が過去に試練を越えられなかったからだと思っている。長い戦いの末、「やっぱり私は間違えてはいなかった」という自信を得た今、今度は親との関係にまで遡って、最初の試練に対峙してるんじゃないかとも考えたりする。

試練は超えるまで何度もやってくる、と言いますが。厳密には、超えるスキルを得ると試練らしき出来事を試練と感じなくなるからである。仮に同じ出来事が起こっても感じ方が変わるせいで、試練と呼べなくなるだけの話だ。となると「困った時は学ぶとき」という考え方は理に適ってるんじゃないですかね。学べば困らないのだから。

「困った」を解決していくのが「生きること」なんじゃないかって最近思います。ゲームのステージをクリアしていくように、超えて行けばいいんじゃないでしょうか。ところで、常識ってなんですか?世間の方々は常識に従ってればそこそこ幸せなはずじゃないの?なのになんでそんなに不幸そうな顔をしてるんですか?

「『世間の常識』を軸にして生きていても幸せじゃないんじゃないか」薄々気付いていながらも、困っていないから学べないのだ。本気で「困った」と感じさせない程度の幸せは与えられる豊かな社会に、学ぶ機会を根こそぎ奪われる。常識の中で生きている方が安全だと洗脳されて、不本意な人生を「これで幸せなんだ」と納得させられる。

馬鹿馬鹿しいよね。