貧と鈍

たまにネットニュースを見ると、二極化が進んでいるなーと感じます。今だと九州で起きた、ママ友による洗脳で子供が餓死した事件とか。「ママ友が一番悪いけど、母親も悪い」といった冷静なコメントが多いことを嬉しく思う。そう、弱さは罪なのです。

 

『風の時代』は心の時代だそうですが、物質的な価値がなくなるのかというと、そういうわけではありません。心が豊かな人は経済的にも豊かに、心が貧しい人は経済的にも貧しくなると言われています。

以前も書きましたが、最近の私は、豊かな人に向かって「苦しい人の気持ちも考えろ」などと批判する人を生暖かい目で見ている。彼らは自分のことを「人を思いやれる優しい人」だと信じて疑わないんだろうなと。でも本当に優しいんでしょうか。苦しい人がいるのに贅沢するな、って傲慢すぎやしませんかね。他人のお金なのに。

なにより、どれほど高級なモノでもそれを作る人がいます。たとえば車なら部品を組み立てて生計を立てている人がいるんです。その人達はどーなってもいいんですか。一見「他人のことを思いやれる人」に見えるけど、所詮自分の見える範囲、見たいところだけですから。

だから偽善者は嫌いなんだよ。

いま苦しい当事者で、豊かな人を批判するなら尚更。「苦しい人の気持ちも考えろ」と叫ぶのと同時に「自分に関係ない人はどうでもいい」という矛盾が生じている。つまり「自分さえよければいいのか」の叫びは盛大なブーメランであって。

今、踏みとどまれる人が多ければ多いほど回復も早くなる。その人達を引き摺り下ろしたらどうなるか。

三次元的にはそうでないのかもしれませんが、五次元的には「残念ながら」って感じ。それに気づいた、または気づきかけている人が多いように思います。