過程

もう自己愛達との戦いに区切りがついたと感じたのは、私達の関係が変わってしまったからです。私達というより私が変わってしまっただけかも知れませんが。

これまで関わってきた難アリの上司や会社のことを考えていて、本当は何に執着していたんだろうと思い始めた。親との問題や兄弟との格差が根底にあるのは今まで書いているとおりですが、なんかイマイチすっきりしない。そして今日夜中の2時に目が覚めて、ふと思い浮かんだ事。

学校のテストに例えると、普段どう頑張っても20点の人が40点取れれば大きな進歩だと捉えられる。しかし普段90点を取っている人が90点だと努力していないと捉えられる。

40点と90点では90点の方がいいはずなのに、である。「いい点を取りなさい」と言われながらも、現実はいい点だけでは評価に値しない。私はずっと、ここにひっかかっていた。あなたたちは、いったい何がどうなれば気が済むのかと。答えは「結果」と「過程」の重要度に対する価値観の違いだと思います。

私は小学生の高学年までは、友達と遊ぶより家へ帰って勉強するような子供だった。それが道にそれてしまって、中学に上がると同時に良からぬ方向へ突き進むという、ありがちな流れなのですが。

夜はこっそり抜け出して寝ずに遊び、朝方に家へ忍び込んで少し寝て学校へ行くという生活を送っていましたが、テストの3日前からは絶対に遊びに行かなかった。お蔭で成績だけは良かったし、美術とかの提出物も寝ずに仕上げ、賞なんかもらっちゃったりもしていた。

断じて「昔はワルだった」自慢ではありません。私はおそらく昔から「結果良ければ全てヨシ」人間だったんだと思う。素行がよろしくない子供はたいてい成績も悪いけれど、ほとんどの大人は「遊んでばっかりいるからだ」と口を揃えてここぞとばかりに叩く。

私は「ナントカの一つ覚えみたいに(怒)。ほかに言う言葉はないのか(呆)」と心の中で悪態をつくような子供だったので、その台詞を言わせないための策だったのでした。なので、なかなかの悪ガキ(断じて~略)でしたが、突っ込みどころがないために、先生達はかなり苛立ってらっしゃった。

そしてそれは今も変わっていない。仕事そのものは「最小限の努力で最大限の結果を得る」のが私のモットーです。いかに無駄な動きを省いて結果を出すかを常に考えている。考えているというより、そういう思考が当たり前になっています。その代わりに手を抜くための努力は厭わない。

だから、見込みのない客先にあくせく通って結果の出ない営業マンより、どっかでサボって寝たりしてても売上を達成する営業マンの方が格好いいと思ってしまうんだよ。だけど、そうは取らない人もいるんだよね。

なんていうか。「こんなに頑張ってます」を見える化(多分使い方違う)しないと納得しないんだな。点数は関係なくて、枕を濡らしたフリでもしとかなきゃダメで、鼻ホジってちゃいかんかったんじゃないかな。

つまり、本当は結果を求められていたのではなくて、過程を求められていたのだと思っている。だからなんだって話ですが、そうならそうって言えよ、って言いたいだけです。結果を出すってことは、そこに至るまでの過程が絶対あると思うんですけどね。

でもそんなことより、人生に対しては全く生かされてないのが笑える。謎が解けたのでスッキリしましたが。