限界の先

私はいい気分の時、胸の辺りから開放感が広がる感じがする。反対に気分がよくない時は、みぞおちが疼いたりざわついたりする。私の場合、みぞおち=エゴと認識していますが、エイブラハム様は『エゴ』という言葉を使いません。気分がよくない時は「そこにとても大事なものがある」か「望みとは反対のほうを見ている」かを知らせているのだと仰っている。

先に願いが叶った状態があるから現実として現れる。わかっているけど今の私には難しいみたい。通常、「願い」と認識したものは「ない」から生まれる。顕在意識の「ない」を「ある」に変換してエネルギーを揃えるのは、なかなか高度な技だ。思考のクセなどの理由で個人差があるから、段階的に上げていくしかないんだろうな。

私は今年1月、無望という日記を書き、それについて詳しく書いたものにまやかしというタイトルをつけた。その後もエゴと戦ったりしてるので、完全に執着のない状態が3月~5月辺りだったのだろう。それを踏まえると、やはり(良い意味で)『望みがない』=『満たされている』ことになるのかなと思います。

 

話は変わりますが、コロナ関係なくても日本経済はもう限界なんじゃないですかね。より便利に・より快適に、を追い求めて経済は成長するが、それを阻む人がいる。その時代を知らない人は日本全体が浮かれてたと勘違いしているようですが、バブルの頃だって皆平等に裕福だったわけじゃない。全く恩恵を受けていない人だっているのです。格差はいつの時代にもある。

格差を叫び、「自分にはない」「自分にはできない」(意訳:だからクレ)の人達の主張を真に受けて美しい配慮を心掛けた結果、成長は止まる。彼らは頑張りたくないし、成長もしたくないし、何より変わりたくないのだ。かといって自分だけが置いて行かれるのは嫌だから、表向き正当を装った主張で変化を止めようとしているだけだ。それでいいのか。

彼らは不幸が嫌いなんじゃない。幸せな人の存在が嫌いなのです。つまり自分だけが不幸なのが嫌で皆が不幸なら満足なのであって。ホント最低だな。そんな人に構っていて本当にいいのか。

制約や常識などというのは、よりよく生きるためのルールであり、そこから著しく外れた人は排除するべきだろう。だってルールが成り立たないのだから。人はみな自分の世界を自分で作っているので、似ている世界を持った人と時間を共にすると争いは起こりにくい。というか、「起こらない」と言い切れるかもしれない。

平和を望む国と武力を行使したがる国は仲良くなれないのと同じで。それって当たり前でしょ?なんで『人の心』が絡むとこんな当たり前のことがわからなくなるのか。そう刷り込まれたからだろうな、きっと。

ところが、ここ数か月で徐々にこの流れが変わってきているのに気付いてますでしょうか。それを追うように、最近メンタル強化系が流行りつつあるようにも見えます。これまで心は環境や性格によって左右されるもので、極限られた一部の人だけがコントロールできると考えられていた節がある。そしてそれさえも「運」の一言で片づけられてきましたが。

この流行はある種の人にとっては厳しくなるだろう。常識は数の多さで作られる。一人、また一人と自分の心をコントロールする人が増えれば、いずれそれは常識となっていくのだから。格差などという生易しいもんじゃなく、完全な分断に入る時が来てるのかもね。