シンキングタイム。

そもそも父はなぜ「楽」に抵抗したのだろう。

「楽」の反対は「苦」らしいのですが。わざわざ、みすみす苦労を選ぶことと同義ではないと思うんですよ。

何かを得るための「苦」はあっていいんだけど、見境なしというか単純に「苦」の道を選んだところで、何かを得られる保証なんてないんだよね。正しくは「楽」のための「苦」であり、「苦」しか生まない「苦」は生産性がない。

「苦」を味わえば人間性が高まるとでも思ってたんだろうか。だとしても否定はしないけど、それって「苦」を楽しめる人間だけができる娯楽なんじゃないですかね。

「苦」に取り込まれて、自分自身が”誰かに助けて貰わないとならない人”になっては元も子もないのだ。本末転倒である。

要するに己を過信しすぎだったんだよ。

私が父を親に持った理由はそれではないかと考えている。人生を賭けた過ちに私が気付くため。

そんな気がしてならない。

 

ここまで書いた後、連休前から母に用事を頼まれていたので実家へ行きました。

父が亡くなってから疎遠になり、ちゃんと会うようになったのは去年だったかな。それでも会う回数が少なかったせいか、長らく父の愚痴を聞かずに済んでいたのですが。

やはり母は根本的に変わることはないのだ。しかし愚痴に対して条件反射的に怒りを感じていたこれまでとは違い、なぜか全然腹が立たなかった。腹は立たなかったけれど、何を言ってるのか全然理解できませんでした。

「それとこの話とどういう関係があるの?」と何回聞いただろう。元々理解しがたい人なんだけどそれとは明らかに違う。これまでは母と私の間にあった共通点が、私を苛立たせていたのだ。

でも今は。「共感したくない」とか「共感できない」とかそういうことじゃなくて、まるで文化の違う国の人と話しているような感じでした。

もちろん母もなんだかんだで結局「苦」を選んだ人である。

 

この夫婦は「苦」を選ぶ者同士が引き寄せ合った、そういうことなんですかね。知らんけど。

そして「苦」と「苦」の結晶である私はこの夫婦を見て、『自分軸』って大切だなと改めて思ったのでした。