おもちゃ箱

「感情は私のものじゃない」と気付いたのは、そうなった後のことだった。

私は数か月前まで、常に頭で何かを考えていたような気がする。今も考えてるんだろうけど、顕在意識はあまり使っていない。記憶が曖昧になるという弊害はあるものの、慣れればなんとなく乗り切れる。

強い感情を伴った記憶は潜在意識に定着し、それが自分の世界を創る源だったりする。なので感情と同化しなくなれば、潜在意識に入れるものをある程度は選別できるようになるという理屈だったのだ。

現実は夢のようなものですが。夢の中でも感情が働くように、今もちゃんと感情はある。とはいえ現在、負の感情はほぼ湧いてこず、概ね良い感情が多いといえども、それらに浸ることはない。

私が不幸で無知だった頃、稀に発生する喜び=それをもたらしたシチュエーションを再び望んでいた。今となっては何故そんなことに固執したのか、さっぱりわかりません。

自分を不幸だと信じる無知な人間は、喜びを特別なものにしたがる。つまり自分でハードルを上げていたのです。自分がそう不幸ではないことを知り、無知を自覚すれば、おのずとハードルは下がる。

低いもので満足するとかそういう意味じゃなくて、喜びに順位をつけないってことです。つまり今まで特別だと思っていた喜びが特別ではなくなるのだから、元々設定したハードルよりも遥かに高い位置にいることになるんだよね。

全ての喜びは等価値。

そんな人生は楽しくないでしょうか。『特別』がないとつまらなく感じるでしょうか。

少なくとも私は楽しいです。

この世界はおもちゃ箱のようなものだから。

 

昨夜、Rちゃんとご飯を食べた。多少キラキラした時代を知ってる私達は、今の閉塞感に嫌気がさしている。「まず、大人がキラキラしないとダメだよな」という結論に至ったのですが。どうすればキラキラを表現できるんだろう。

久々にカラオケ行って5時間歌ってきました。喉が痛い。