預ける

神社に参拝したあと運気が下がった件ですが。4日目にはすっかり忘れて平常運転に戻った。

あの日、岡山からの帰りに「神様ってほんとにお願い聞いてくれたりするのかなー」なんてことを考えてまして。猜疑心からではない。私が知りたいのはメカニズム。

私が普段「神」と呼んでいるものは宇宙だったり大いなる存在だったりと、とにかくカタチがないし奉られてもいない。そしてその神は勝手になにかを与えてくれたりはしない。

〇〇の神と崇められてる割に、願いが叶った人と叶わなかった人がいるのはなぜかという素朴な疑問だ。結局、叶ったという人は「手放し」たんじゃないかと考えた。「お願い」ではなく「預けた」のではないかと勝手に結論付けたのですが。

私は一時的に運気が下がったことで肌の停滞期から目を逸らすことができ、いい具合に力が抜けた。手放しと諦めの境目は「確信を持てたかどうか」だと思う。確信すればいちいち覗き込んだりはしない。それはもう「決まっている」から。

私の行くサロンでも「精油や施術にはこのような効果がありますよ」とは言うが、特徴としての効果であって、基本は「あくまで変わるのは自分」というスタンスである。逃げ道ととるかどうかも自分次第。

カルトや似非スピリチュアルで救われないのはその違いだろう。だって幸せになってもらっちゃ困るんだから。幸せになる可能性と希望をエサに依存させて、力を奪っていくのみ。

だから。やっぱり信じるのはまず自分。そして信じる者は救われるのだ。

淀みない決意を神は無下にしないと思うんだよな。